僕は部屋でひとりぼっち

くさばといいます。

祖母の話

母方の祖母はわたしが小学校4年生くらいの頃に亡くなった。年一でしか会わなかったしあまり思い出もないけど母親から話を聞くと色々面白かった。祖母は四国の普通の家に生まれたが、頭が良く手に職をつけたいと思い看護学校に入った。そこがこの世界の片隅でで聞き馴染みのある広島の呉。海軍士官学校の隣に看護学校があったらしい。当時の海軍士官学校にいるのは日本のエリートばかり。まず顔が良くて背が高くないと入れないらしい。(本当か?)祖母の初恋もそこの人だったけど顔がいい男はみんな大和に乗って死んでしまった。残っているのはブサイクばかり…と言っていたとか。笑

看護学校を卒業した祖母は身内のツテを頼りに中国に渡って北京大学付属病院に勤務した。当時は日本軍が占領していて、日本とは比べ物にならないくらいみんなおしゃれでお金を持っていたと言っていた。そこで何人もの人からプロポーズをされたらしい。しかし敗戦後、引き揚げは着の身着のままで大変だったと聞いている。母いわく、当時のことはあまり話さなかった、よほど大変だったんだろうとのこと。そして日本に戻って一度結婚する。しかし祖母の家があまり裕福でなくて嫁入り道具に蚊帳が入ってなかったことを姑にチクチク嫌味を言われたらしい。蚊帳って!それを夫が全然庇ってくれなかったことに嫌気がさした祖母は手に職あるし!と離縁して、地元の病院で働き、当時にしては珍しい恋愛結婚で祖父と結婚して、母親たちを産み育てた。

祖父も祖父で、大学生の頃スキーしてたら二・二六事件が起きてびっくりしただとか、軍人になりたくないから医者になって軍医になったとかエピソードはある。祖父はぼんぼんだったらしい。そんな祖父はボケてから、90を過ぎても戦時中のことを話していたのでやはり戦争が残す爪痕は何十年経ってもあるのだなと思う。

わたしは大学で中国学を専攻していたので以上の話を先生たちにしたらめちゃ盛り上がっただろうな〜〜という感じ。そしてやはり手に職、特に看護師は強い。そんな祖母に育てられた母も一応手に職(使える資格)あるが、そんな母に育てられたわたしには手どころか職がない。資格もねえ。病気とはいえ急かされていない時点でわたしは相当恵まれているなと思った日曜日でした。